宗安寺

上田市岡:南澤崇善 住職
〔連載第75回〕

 上田市岡の宗安寺の開創は寛仁年間(1017〜21)に恵心作の阿弥陀如来を祀ったことに発祥。当時は「帰命山正善寺」と称した。
 また、永正七年(1507)上杉顕定に対し長尾為影が反乱した折に将軍足利義澄の家臣だった藤木刑部長広は、高梨康行の討伐に加わりその恩賞に当区を受けた。そして享禄四年(1529)に長広は没したが、家門の藤木連雄が長広の菩提を弔うために天文元年(1532)に一宇を建立した。その後上田原合戦(1550)の戦火で伽藍は焼失。やがて当区を司った上田城主の家臣・日置五右衛門尉尹俊は寺の再興を城主に願い出て再建を果たす。寺号は現在の宗安寺に改まった。
 上田城主となった松平伊賀守は宗安寺を庇護し、輪島塗の膳椀や屏風絵(永丹画)、夜具(りき姫愛用の品)などを寄進している。これらの品々は、客殿内に展示されている。

珍しい「駒返し」
 墨門をくぐると築地塀がカギの手に二つ建っている。これは「駒返し」といい、馬上の人はここで馬を下りなければならなかった。
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