上田女子小が全焼、久米校長自殺

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焼失直後の上田女子小学校

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焼失後立て替えられた女子小学校。
以後町役場、市役所庁舎として昭和四十三年まで使われた。

 

 上田町民が初めて目にするモダンな高楼は町の中心部正面にそびえ、ますます景気をあおった。そして大手前広場には人力車の待合所も置かれ上田銀座は人で溢れた。

 当時、上田の人力車数は明治十六年に百四十六輌で県下トップの数字で、同三十三年には二百九十七輌に増加、隆盛を極めた。引き手は郵便事業の開始で職を失った飛脚達が務め、昼は蚕種の仲買人や買い物客を乗せ、夜は提燈をつけ遊廓へと走った。

 料金は一里(約四キロ)五銭五厘、田中まで二里十七丁で十二銭五厘だった。酒一升七銭、そば一人前一銭、銭湯大人一銭の時代である。

 しかし、上田の象徴、女子小学校は竣工二十年後の明治三十一年三月二十七日夜、原因不明の火災で全焼する。卒業式前夜であったため放火という説もあったが、校長久米由太郎は、天皇の行在所となった由緒ある建物を焼失した責任をとって三日後、自殺をしている。

 作家久米正雄(当時八歳)は目のあたりにした学校の焼失と父の自殺を小説「父の死」として発表、大正四年文壇にデビューしている。

 女子小学校は翌三十二年、やはり一部三階建ての洋館で再建され大正五年、当時原町(現在のどうひら)にあった上田町役場の建物として使われた。同八年市政施行で上田市役所となり、昭和四十三年八月、現在の市庁舎ができるまで約五十年間、市の業務が行われてきた。

 また特筆すべきは、女子小学校の付属として、明治二十六年「子守り学校」が開設されたことである。貧困のため無教育のまま「子守」として他家に雇われている女子たちの無学を解消しようと放課後二〜三時間ずつ、修身、読書、習字、算術、唱歌などが教えられ、他地方からも多くの視察者が訪れた。当時は女子の勉学には風当たりが強く、上田は特に遊興色の濃い町で、その傾向が顕者であったが、鉄路の開設はヒューマニズムの波も運んできた。